- [9]関わった人みんなで彫った看板
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地鎮祭から基礎を造り、棟上げまでは急ピッチで進みました。
棟上げは12月末になり、ちらちら降る雪の中での作業で、大工さん達はどんなにか寒く大変だったことと思います。
それから春まで、骨組みはビニ-ルシ-トにすっぽりくるまれて冬眠となりました。
工事を再開してからが長くかかりました。
棟梁は、製材された木材をさらにまた1本ずつ鉋をかけたり、本当に丁寧な仕事ぶりでした。
壁や床全体に断熱材を入れながら、無垢の木だけで建てるのがどんなに手間のかかることかよくわかりました。
結局7月中旬に完成の予定が10月末までかかってしまい、それだけ工期が延長して一番大変だったのは、工務店の社長さんだったと思います。
その年の春から秋までは、往復5時間以上の運転をものともしない夫のおかげで、しょっちゅう日帰りで開田高原に通いました。
それでも、行く度に、いい所だなぁと思えたのがうれしいことでした。
完成までに、木聲舎の看板を自分たちで作るということになり、社長さんが提供してくれた檜の板に、父が筆で書いた‘木聲舎’の文字を写し取って、彫刻刀で彫りました。
父は、最初に開田高原を訪れた翌年、脳梗塞で倒れ、半身不随になってしまいました。(そのことがあったので,木聲舎の1階はバリアフリ-にしてもらうことになりました。)
父は、リハビリのために書道を習い、障害者仲間と共同で展覧会も開いていました。
そんなわけで、父に木聲舎の字を書いてもらうように頼んだのです。
「木聲舎に関わるなるべく多くの人に彫ってもらいましょう。」という設計士さんの提案で、兄弟姉妹他いろいろな人に掘ってもらいました。
最後は黒く塗ることになっていたのですが、まだ白いまま玄関を入ったところに飾ってあります。
こうして、多くの人々の力と見えない力とが合わさって、木聲舎は完成しました。
本当に感謝でいっぱいです。
それから年月が経ち、いろいろなことがありました。
冬の凍結で、シャワ-やウォッシュレット、洗濯機など、水回り機器が次々と壊れたり、大雨で何度も地下に浸水したり、雪で玄関ドアが壊れたり、庭にとんでもないもの(夫にとってはとんでもなく素晴らしいもの)が置かれたこともありました。(今でも置いてあります。)
出会いもたくさんありました。
開田高原に移り住んで、石釜でパンを焼いているタビタのパン屋さんや、脱サラで家具職人になった金時(きんとき)さんや、大阪から毎週通って、たった一人で家を建てた裏隣のおじさん等、他にもユニ-クな人がいっぱいいます。
そのうちまた、紹介していけたらと思います。
続きはこちらです。↓
[10]木聲舎 感想ノ-トから
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